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	<title>大分活性化宣言！ &#187; 終戦記念日</title>
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	<description>大分のグルメ・観光・温泉・イベント…情報満載！地域最強ブログ</description>
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		<title>[終戦記念日特集]予科練資料館</title>
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		<pubDate>Sun, 16 Aug 2009 01:57:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ケンジ</dc:creator>
				<category><![CDATA[特集企画]]></category>
		<category><![CDATA[予科練資料館]]></category>
		<category><![CDATA[大分市]]></category>
		<category><![CDATA[太平洋戦争]]></category>
		<category><![CDATA[特攻隊]]></category>
		<category><![CDATA[終戦記念日]]></category>

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		<description><![CDATA[「死に損なった…それしか考えませんでした。」
現在大分市に住む川野喜一さんは、終戦を告げる玉音放送を聞き、最初にそう思ったそうです。  この考え方、皆さんには理解できますか？私には到底理解できません。
私は思い切ってこう [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span style="color: #ff0000;">「死に損なった…それしか考えませんでした。」</span></p>
<p>現在大分市に住む川野喜一さんは、終戦を告げる玉音放送を聞き、最初にそう思ったそうです。  この考え方、皆さんには理解できますか？私には到底理解できません。</p>
<p>私は思い切ってこう切り返しました。</p>
<p><strong>「私には理解できませんが…どうしてそんな風に思えたのですか？」</strong></p>
<p>川野さんはしっかりした口調で、こう答えました。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「20歳で死ぬんだと、そう思ってたからです。それが当たり前の時代だったんです。」</span></p>
<p>川野さんは、予科練の出身で数少ない元特攻隊員。そんな川野さんが運営・管理する、  『<span style="color: #ff9900;"><span style="font-size: large;"><strong>予科練資料館</strong></span></span>』  は大分市の上野丘にあります。</p>
<p><img class="aligncenter size-full wp-image-312" title="P1170568-s" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/P1170568-s.jpg" alt="P1170568-s" width="200" height="267" /></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-313" title="1187133508" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/1187133508.jpg" alt="1187133508" width="150" height="112" />最初にお伝えしますが、予科練資料館は大分県の施設でも大分市の施設でもありません。あくまでも川野さんの個人宅に作られた私的な資料館です。 もし見学に行かれる際は、連絡し在宅を確認してから訪問して下さい。</p>
<p>川野館長は我々に多くの事を教えて下さりました。 それは戦争の真実から、現代の世界情勢、そして思想に至るまで、様々な事です。 かなり強烈な印象を受ける思想的考え方も含まれますので、ここではあくまでも我々が目にした事実だけをお伝えしたいと思います。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-314" title="1187133288" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/1187133288.jpg" alt="1187133288" width="150" height="112" />予科練とは、海軍飛行予科練習生、俗に言う少年航空兵のことです。制度の出来た昭和5年から15年3ヶ月に渡り、多くの優秀な若者達を輩出して来た、当時の軍事エリート学校というところでしょうか。 第一期生の志願者が5,800名で、合格者が僅か79名ということですから、どれだけ狭い門だったかというのが良く分かります。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-315" title="1187133305" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/1187133305.jpg" alt="1187133305" width="150" height="112" />太平洋戦争末期、米軍はついに日本本土上陸を開始し、日本は悪化する戦況の打開を図るため、ある戦法が取られました。</p>
<p>―特別攻撃隊―</p>
<p>一機一艦必殺の体当り。 名も命も惜しまず、何のためらいもなく、ただ国を救うことのみを考えた作戦だったと言います。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-316" title="1187133320" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/1187133320.jpg" alt="1187133320" width="150" height="112" />特攻隊として、次から次に飛んでいった若者達こそ、この予科練の卒業生だったのです。 最終的に特攻隊として亡くなった方は、予科練卒業生の何と８割。 2,534名の20歳前後の若者達が、こうして若い命を失っていったのです。予科練資料館の中は、とにかく貴重な資料で溢れています。<br />
 特攻隊の方が身に着けていたものから、実際に亡くなられた河野館長の同期生の皆さんの遺影などなど。一つずつ丁寧に見ていると、あっという間に時間は過ぎてしまうほどです。<br />
 特に目を引いたのは、やはり飛び立つ隊員が家族宛に書いた遺書の数々。ほんの一部しか紹介できないのが残念ですが、短い文章のものを抜粋してお伝えしたいと思います。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><em>『父上様、母上様、長い間有難うございました。 何も言い残す事はありません。ただ有難うの一言です。 家門の名を汚さぬ死に方をする覚悟です。 叔父上、叔母上様、永き厚恩を謝す。幼年時代に遊び歩いた田舎道や、叔父上、叔母上のお顔が、いよいよ最後の時になり、懐かしく思い出されます。 最後まで、笑っていきます』</em></p>
<p><em>『父様、母様、お元気で。 お体大切に。泣かずに微笑んでで下さい。 「我、父母の子にして子にあらず、 　死して悔ゆることなし」』</em></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-317" title="1187133400" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/1187133400.jpg" alt="1187133400" width="150" height="112" />川野館長が、特攻隊員として正式に任命されたのが、昭和20年7月25日。そして62年前の夏、結局川野館長が戦場へ飛び立つ事はなく、終戦を迎えたのです。 この話の流れで、冒頭の川野館長とのやり取りへ繋がります。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「20歳で死ぬんだと、そう思ってたからです。それが当たり前の時代だったんです。」 </span></p>
<p>川野館長はそう答えました。 正直そう聞いても、やっぱり私には理解できないお話でした。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-318" title="1187133385" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/1187133385.jpg" alt="1187133385" width="150" height="112" />その後、川野さんはこう続けました。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「でも生き残ったのには、何か理由があると思ったんです。だからここに予科練の資料を集め、一人でも多くの方に知ってもらおうと努力しています。」 </span></p>
<p>特攻隊の話を聞いて、「可愛そうだ」とか「理解できない」とか「恐いなぁ」とか…そう思うのは簡単です。そこから少し考えを広げて、現代の社会を否定したりする事は、個人個人の思想の問題です。 だけど、もう一歩だけ踏み込んで、私は考えてみました。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p>戦争を知らない私が出来る事など、本当に限られています。昨年、今年と色々な経験をし、私はこう思いました。</p>
<p><strong>『知る事、そして伝える事』</strong></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-319" title="1187133371" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/1187133371.jpg" alt="1187133371" width="150" height="112" />これこそ、ほんのちょっとの努力で出来る、平和への大きな一歩だと感じたのです。運良く私にはここと旧ブログで、平均2000アクセス/日、1000人の訪問者/日が見てくれています。 そんな皆さんに、私が見た事、聞いた事をお伝えしました。</p>
<p>この真実をまた皆さんが、一人でも多くの人に伝えてもらえれば、また平和について考えてくれる人が増えるはずです。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-320" title="1187133491" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/1187133491.jpg" alt="1187133491" width="150" height="112" />2007年、猛暑に見舞われ続ける大分県で、戦争を知らない私が、考えたこと。皆さんに伝わったでしょうか？</p>
<p>平和な世の中が、一日でも長く続く事を、これからもこの大分県から祈っています。</p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>[終戦記念日特集]佐伯市平和祈念館　やわらぎ</title>
		<link>http://active-oita.net/archives/296</link>
		<comments>http://active-oita.net/archives/296#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 15 Aug 2009 01:30:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ケンジ</dc:creator>
				<category><![CDATA[特集企画]]></category>
		<category><![CDATA[やわらぎ]]></category>
		<category><![CDATA[佐伯市]]></category>
		<category><![CDATA[佐伯市平和祈念館]]></category>
		<category><![CDATA[佐伯海軍航空隊]]></category>
		<category><![CDATA[終戦記念日]]></category>

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		<description><![CDATA[2006年の終戦記念日、宇佐海軍航空隊跡地を特集し、大分県にも戦争の傷跡が残る事を勉強させていただきました。自分達が住むこの町に、僅か60年ほど前起きた悲惨な出来事。そしてそれを次の世代に伝える事こそ、自分達にできる小さ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>2006年の終戦記念日、<a href="http://active-oita.net/archives/265">宇佐海軍航空隊跡地</a>を特集し、大分県にも戦争の傷跡が残る事を勉強させていただきました。自分達が住むこの町に、僅か60年ほど前起きた悲惨な出来事。そしてそれを次の世代に伝える事こそ、自分達にできる小さな平和への一歩だという事を学びました。</p>
<p>あれから一年…</p>
<p>この大分県に、他に戦争の証となる施設はないのか？そう考えながら調査してみると、当時の海軍航空隊が大分県にもう一つ存在した事を確認しました。</p>
<p>『<span style="color: #008000;"><span style="font-size: large;"><strong>佐伯海軍航空隊</strong></span></span>』</p>
<p>文字通り、佐伯市にあった航空隊の事です。</p>
<p>40度近い猛暑が続いた2007年の終戦記念日、佐伯海軍航空隊の謎を追うべく、佐伯市にある<span style="color: #008000;"><span style="font-size: large;"><strong>佐伯市平和祈念館　やわらぎ</strong></span></span>にお邪魔しました。</p>
<p><img class="aligncenter size-full wp-image-295" title="yawaragi19" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi19.jpg" alt="yawaragi19" width="250" height="188" /></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-297" title="yawaragi01" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi01.jpg" alt="yawaragi01" width="250" height="188" /><strong>佐伯市平和祈念館　やわらぎ</strong>は、JR佐伯駅から真っ直ぐ佐伯湾の方へ。文理大付属高校の斜め前あたりに位置します。レンガ造りの大きな建物は道沿いに非常に目立ちますので、すぐに気が付く事でしょう。</p>
<p>2007年の春にリニューアルされたばかりらしく、外観も内装も非常に綺麗です。リニューアル後は見学者も増えているそうで、地元の方は元より、観光客も多くなっているそうです。 　ここからの内容を見てもらえば分かりますが、確かに施設としても充実した資料館になっていますので、我々からもお薦めしたい公共施設の一つです。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-298" title="yawaragi02" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi02.jpg" alt="yawaragi02" width="250" height="188" />館内は白を基調にした、清潔感溢れる内装。写真は入り口を入ってすぐの1Fエントランスです。奥にある受付で入館料を支払うと、館内を自由に見学できますが、係りの方が説明をしてくれますので、遠慮なくこれを受けるのが得策。丁寧に解説してくれますので、とても分かりやすく見ることが出来ます。</p>
<p>通常の見学コースなら、ここから二階へと上がり、ぐるっと一周してここへ戻ってくるコースが用意されています。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-299" title="yawaragi03" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi03.jpg" alt="yawaragi03" width="250" height="188" />一階のホールにもいくつかの展示物がありましたが、下の写真の左が、米軍の戦闘機（F-86）の座席。そして右が日本海軍が練習機として利用していた、通称赤トンボと呼ばれる九三式中間練習機の車輪です。戦争末期には特攻機としても利用されました。</p>
<p>二階へ上がる階段に掛けられているタペストリーには、佐伯海軍航空隊と佐伯市の一連の歴史を説明する簡単な資料になっています。まずは階段を登りながら、大まかな流れをここで確認しましょう。</p>
<p><img class="alignnone size-full wp-image-300" title="yawaragi04" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi04.jpg" alt="yawaragi04" width="200" height="150" /> <img class="alignnone size-full wp-image-301" title="yawaragi05" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi05.jpg" alt="yawaragi05" width="200" height="150" /></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-302" title="yawaragi07" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi07.jpg" alt="yawaragi07" width="188" height="250" />二階に上りついたら、通路沿いに太平洋戦争の大きな流れが説明されたパネルが並んでいます。それを見ながら前に進むと、ついに資料館へとやってきます。ここから佐伯海軍航空隊の歴史的な展示品や、戦時中の様々な生活必需品を見ることが出来ます。</p>
<p>佐伯海軍航空隊の庁舎は、このやわらぎの隣、現在海上自衛隊佐伯基地分遣隊がある場所にありました。さらにその先、中江川を越えた向こう側に現在は興人の佐伯工場がありますが、そこが飛行場だった場所で、掩体壕なども今でも見ることが出来ます。つまりこの辺り一体が戦争遺跡として、今でも貴重な戦争史料が多く残されているんです。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-303" title="yawaragi08" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi08.jpg" alt="yawaragi08" width="250" height="188" />ここからは佐伯海軍航空隊と佐伯市の歴史について、貴重な資料を見ながら解説していきたいと思います。</p>
<p>佐伯市は軍都になる事を自ら望みました。それは軍都になることで、莫大な資金が市に入る事になり、当時の常識から考えると、大変名誉な事だったのでしょう。こんないきさつもあり、1934（昭和9）年、佐伯海軍航空隊は開隊することになります。時に日中戦争開戦前。同戦争では多くの兵士達がこの佐伯市から派遣されているのです。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignnone size-full wp-image-304" title="yawaragi09" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi09.jpg" alt="yawaragi09" width="200" height="150" /> <img class="alignnone size-full wp-image-305" title="yawaragi11" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi11.jpg" alt="yawaragi11" width="200" height="150" /></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-306" title="yawaragi12" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi12.jpg" alt="yawaragi12" width="250" height="188" />1940年台に入る頃、佐伯市の湾岸を舞台に大規模な演習が繰り返されます。この頃、この演習が何のためのものなのか？知る者はほとんどいませんでした。実は、佐伯市の湾岸一帯は、当時のある地方の港に形状が良く似ていたそうです。つまりその地を攻撃するための演習でした。時に第二次世界大戦勃発前。佐伯市に似ていたその地こそ、世界を驚かせた真珠湾攻撃の舞台、パール・ハーバーです。</p>
<p>真珠湾攻撃の際、択捉島の単冠湾に集結した攻撃隊が一斉に出撃したのは有名な話。ところがそれだけではなく、実際に佐伯からも出撃隊が発進された事がここで分かります。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-295" title="yawaragi19" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi19.jpg" alt="yawaragi19" width="250" height="188" />上がってきた二階の反対側から、ぐるっと廻って一回へと再び戻ります。辿り着くのは大きな映写機が印象的なホール。後方には、海軍航空隊の資料の他、当時の市民の方々の生活用品が並んでいます。</p>
<p>下の写真の左に見えるのは千人針。白い綿布に赤糸で縫い玉を作り、出兵の際に兵士の無事を願い妻や母が送ったものなのだそうです。名前の通り、その縫い玉は、一人一粒でちょうど千個。つまり千人の女性に縫って貰うのだそうで『祈武運長久』と書かれているのが分かります。</p>
<p><img class="alignnone size-full wp-image-307" title="yawaragi20" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi20.jpg" alt="yawaragi20" width="200" height="150" /> <img class="alignnone size-full wp-image-308" title="yawaragi21" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi21.jpg" alt="yawaragi21" width="200" height="150" /></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-309" title="yawaragi23" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi23.jpg" alt="yawaragi23" width="250" height="188" />この一階のホールでは、大型ビジョンで佐伯海軍航空隊の歴史と、戦場となった佐伯市の解説を詳しく知ることが出来ます。特にこの映像の中で頻繁に登場する、実際に当時を知る佐伯市民の体験談は、非常に貴重で、涙ながらに当時を語る姿は見ている者の涙も誘い、悲惨な状況を想像するに難くない内容でした。</p>
<p>1945年（昭和20年）、ついに米軍は本土へと攻撃を始め、もちろん重要軍事施設のあったこの佐伯市も空爆の標的とされました。昭和20年3月18日、米軍による初めての佐伯市空爆。以降計6度に渡り空襲を受ける事になります。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-310" title="yawaragi24" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi24.jpg" alt="yawaragi24" width="250" height="188" />特にこのVTRの中で、多くの人が涙ながらに説明をされていた4月26日の空襲は、凄惨な現場だったようです。場所は、現在佐伯鶴城高校のある、馬場通り。この辺りにはいくつかの共同防空壕があったそうですが、その中の一つに直撃弾が落下。避難していた多くの市民が犠牲になったそうです。</p>
<p>佐伯市が見舞われた最後の空爆が8月14日。この日、ポツダム宣言が受諾され、翌日太平洋戦争は終結します。あと数日早ければ、少なくとも最後の空爆で亡くなった市民4人の命は助かっていたと思うといたたまれません。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-311" title="yawaragi28" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/yawaragi28.jpg" alt="yawaragi28" width="250" height="188" />佐伯市に築かれた重要軍事施設、そして佐伯海軍航空隊。</p>
<p>ここで命を落とした多くの市民、そして戦争のあった時代を必死に生きた佐伯市民。</p>
<p>多くの事がこの平和祈念館やわらぎで学べました。</p>
<p>ここで何を感じ、何を考えるか？それは皆さん次第です。</p>
<p>どうぞ一度足を伸ばし、その目で真実を確かめてください。</p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>[終戦記念日特集]宇佐で見た戦争の爪跡　~後編~</title>
		<link>http://active-oita.net/archives/294</link>
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		<pubDate>Fri, 14 Aug 2009 09:54:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ケンジ</dc:creator>
				<category><![CDATA[特集企画]]></category>
		<category><![CDATA[城井1号掩体壕]]></category>
		<category><![CDATA[宇佐市]]></category>
		<category><![CDATA[宇佐海軍航空隊]]></category>
		<category><![CDATA[海軍桟橋]]></category>
		<category><![CDATA[終戦記念日]]></category>
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		<description><![CDATA[宇佐で見た戦争の爪跡　~前編~もご覧下さい。

暑かった2006年の夏、ギラギラと照らし続ける太陽の下、我々は60年以上前に起きた太平洋戦争を身近に感じようと、宇佐市にやってきました。ここに何があるのか？ここで何を目撃し [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://active-oita.net/archives/265">宇佐で見た戦争の爪跡　~前編~</a>もご覧下さい。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p>暑かった2006年の夏、ギラギラと照らし続ける太陽の下、我々は60年以上前に起きた太平洋戦争を身近に感じようと、宇佐市にやってきました。ここに何があるのか？ここで何を目撃し、何を感じることが出来るのか？我々が見た一部始終の後半をご覧下さい。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="aligncenter size-full wp-image-288" title="usakaigun43" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun43.jpg" alt="usakaigun43" width="250" height="188" /></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-280" title="usakaigun31" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun31.jpg" alt="usakaigun31" width="250" height="188" />後半の始めは、長洲方面。海沿いの小さな港。何の変哲もない港に見えますが、ここは戦時中に軍艦を行き来するための小さな船を動かす練習をしていた場所だったそうです。通称・<span style="color: #ff0000;"><strong>海軍桟橋</strong></span>。</p>
<p>偶然、我々が行った時は満潮近くだったため、桟橋が深く隠れ、どうなっているのか良く分かりません。実はかなり深く、階段も続き、立派な形をしているのです。下の写真の左側が上から見た海軍桟橋です。また別の機会に全体的な写真を撮って来たいですね。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-281" title="usakaigun34" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun34.jpg" alt="usakaigun34" width="250" height="188" />一転、また柳ヶ浦地区へ。</p>
<p>上の右の写真。どこにでもある普通の踏み切りがありますが、ここは戦時中から使われてきた貴重な踏み切り。今なお<span style="color: #ff0000;"><strong>航空隊踏切</strong></span>という名前でJRにより利用されています。つまり戦時中から同じ場所が利用されているということなのです。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-282" title="usakaigun35" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun35.jpg" alt="usakaigun35" width="250" height="188" />荒廃したこの建物は戦時中、<strong><span style="color: #ff0000;">エンジン調整室</span></strong>として利用されてきた貴重な戦争資料。</p>
<p>ご覧の通り、かなり荒廃も進んでいるのが分かりますが、実はここにもかなりの銃撃痕が残っています。ここに限らず、宇佐市の多くの戦争史跡は、現在私有地となっていますので、ほとんどの場合は市が管理出来ていない状況です。もちろん許可も得ていませんので、近づいて写真を撮る事は出来ませんでした。100mほど手前から見ることは出来ますので、そこからのワンショットです。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-283" title="usakaigun36" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun36.jpg" alt="usakaigun36" width="250" height="188" />宇佐市を縦断するように真っ直ぐに伸びたこの道。当時航空隊の<strong><span style="color: #ff0000;">滑走路</span></strong>があったのと同じ場所に作られたものです。長さ1800m､ 幅80mの滑走路はここで何基の飛行機に乗り込んだ若者を見送ったのでしょうか？今では市民の生活欠かせない重要な県道として、広く利用され歩道の隅には写真のような平和祈念碑が建てられていました。</p>
<p>終戦後、一旦はこの滑走路も田んぼに戻されました。その際に滑走路として利用されてきたコンクリートは地元の方が砕き、捨てられたり、埋められたりして戦前の姿へ戻っていったのです。また一部のコンクリート片は、民家の塀として近隣に残されているものもあるのだそうです。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-254" title="usakaigun37" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun37.jpg" alt="usakaigun37" width="250" height="188" />滑走路跡まで行くと、様々な場所で『<strong><span style="color: #ff0000;">城井1号掩体壕史跡公園</span></strong>』の案内が書かれた道路標識を見つける事ができるはずです。ここは広大な宇佐平野。延々と続く田園風景が心を和ませてくれます。そんな平野の中にポツポツと見える、円形の駐車場にしては大きすぎる奇妙な建造物。これが<strong>掩体壕</strong>と呼ばれる、飛行機の防空壕です。</p>
<p>現在、この地区に10基の掩体壕が残されているそうですが、他の戦争史跡と同じく、そのほとんどは一般市民の所有地となっています。そんな中、一際立派に当時の風貌を残す、この<strong>城井1号掩体壕</strong>を宇佐市が買い取り、史跡公園として整備したのです。この<strong>城井1号掩体壕</strong>こそ、<strong>宇佐海軍航空隊</strong>のあった証であり、平和の象徴だと言えるでしょう。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><strong><img class="alignright size-full wp-image-284" title="usakaigun38" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun38.jpg" alt="usakaigun38" width="250" height="188" />城井1号掩体壕</strong>の内部は確かに飛行機の形に象られているのが良く分かります。</p>
<p>戦後50年にあたる平成７年３月に宇佐市から史跡の指定を受け、これを受けて平成９年に史跡として整備されたものです。実は第2次世界大戦の戦争史跡は、沖縄県南風原陸軍病院壕（同県南風原町）に続き、全国でも２番目という非常に貴重な指定なのです。敗戦のあおりからか、戦争の象徴的なものは次から次に排除されていく中、この宇佐の掩体壕が運良く残っていた事に感心させられます。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-285" title="usakaigun39" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun39.jpg" alt="usakaigun39" width="188" height="250" />さらに近づくと、中にあるプロペラがやはり目に付きます。実はこれは国東の海で見つかった実際の零戦のプロペラ。撃墜されたものなのか、今となってはわかりませんが、現在は綺麗に色も塗られ、貴重な史料としてここで保管されています。さらに下を見ると、実際の零戦の大きさが白塗りされ、プロペラが所定の位置にあることも分かりました。（下写真左）</p>
<p>訪問者が思った事を綴るノートもここにあります。（下写真右）実はこのノートが一躍全国のニュースに流された事件があったのをご存知ですか？ 歌手の一青窈さんがこの地を訪れた際、この感想帳に<span style="color: #0000ff;">「たくさんの悲しいできごとが　消えて　たくさんの花が咲きますように」</span>と記したのですが、数日後このページが破られているのが見つかったのです。戦争遺跡という現代でも特別な史跡で起こった心無い事件に、書き込んだご本人もショックを受けたことでしょう。</p>
<p><img class="alignnone size-full wp-image-286" title="usakaigun41" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun41.jpg" alt="usakaigun41" width="200" height="150" /> <img class="alignnone size-full wp-image-287" title="usakaigun42" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun42.jpg" alt="usakaigun42" width="200" height="150" /></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-288" title="usakaigun43" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun43.jpg" alt="usakaigun43" width="250" height="188" />掩体壕の脇にそっと立てられた<span style="color: #ff0000;"><strong>鎮魂碑</strong></span>。周りを囲む様に当時を知る様々な人達の詩や俳句が、並べられています。一つ一つ丁寧に読んでいくと、涙を誘う内容に当時の心境、またはどうにもならない苦しさを知ることが出来ます。ベンチとして利用されているものは、上記滑走路で利用されていたコンクリート片。隅から隅まで、戦争遺跡で固められたこの地に、何かを感じざるを得ませんでした。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-289" title="usakaigun46" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun46.jpg" alt="usakaigun46" width="188" height="250" />一通りの遺跡を見て回り、最後に我々が案内されたのは、一般の民家でした。ここは吉松地区にある近藤さんのお宅。現地に着くと、コンクリート塀に痛々しく残る無数の爆撃痕にすぐに気が付きます。これらは何かの銃弾の跡ではなく、どうやらほとんどが爆弾による炸裂痕らしく、これだけの跡が残っているほどの激しい空襲の中、良くこの塀が残っていたな、と驚きます。</p>
<p>昭和20年、激しくなる米軍の攻撃の中、航空隊のあった重要拠点であるこの宇佐市は、4月と7月、二度に渡り大きな空襲の被害に遭います。この近藤様宅の炸裂痕もその時に被害に遭われたもの。なぜ今でもこのままにしているのか？不思議に思えますが、この日ここまで案内してくれた教育委員会の井上課長の計らいで、実際に今でもこの家に住む近藤さんにお会いし、お話をお聞きする事ができました。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-290" title="usakaigun47" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun47.jpg" alt="usakaigun47" width="250" height="188" />戦争当時、満州に派遣されていたという近藤さん。宇佐市がこういう状況になっていたというのは、戦後帰国してから初めて知ったのだそうです。</p>
<p>昭和20年7月15日。折りしも田植えの時期。近藤さんの家も四日市からお手伝いを雇い、田植えに励んでいたそうです。そん中突然訪れる大空襲。お手伝いに来ていた親戚など10余人を含む多くの人々が逃げ遅れ亡くなられたそうです。近藤さんのお姉さんやお父さんも逃げ遅れて重症。一命は取り留めましたが、一生症状の残る大怪我をされたという話でした。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-291" title="usakaigun48" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun48.jpg" alt="usakaigun48" width="250" height="188" />宇佐海軍航空隊の話をお聞きしてみました。</p>
<p><strong>「この宇佐からも多くの若者が特攻隊として飛び立っていったわけですが…。」</strong></p>
<p><span style="color: #0000ff;">「はい。死んでいった方のことを考えると、複雑です。」</span></p>
<p><strong>「当時特攻隊というのは、志願された方が参加されていたと聞きましたが、実際はどうだったのでしょうか？」</strong></p>
<p><span style="color: #0000ff;">「本当に国のために命を投げ出して良いと思っていたと思います。実際私も徴兵命令が来るまで、早く戦場へ行きたいと思っていました。そういう時代、そういう教育だったんです。」</span></p>
<p><img class="alignleft size-full wp-image-292" title="usakaigun49" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun49.jpg" alt="usakaigun49" width="250" height="188" />戦争当時、近藤さんは満州の鉄道会社にいたそうです。鉄道会社の社員はなかなか徴兵されなかったらしく、早く戦争に行って国のために働きたいと当時は本当に思っていたそうです。</p>
<p><strong>「満州という地域自体、我々には想像もつかないわけですが…」</strong></p>
<p><span style="color: #0000ff;">「もちろんそうでしょう。酷いところでした。満州が酷いのではなく、満州にいた日本人が酷かったのです。満州の方は酷い差別を受けました。給与面はもちろん、全ての待遇においてです…。」</span></p>
<p>近藤さんはそう言いながら、遠くを見て一瞬言葉を詰まらせました。そしてさらにこう続けたのです。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><img class="alignleft size-full wp-image-293" title="usakaigun50" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun50.jpg" alt="usakaigun50" width="250" height="188" />「今、靖国問題などで間違った方向に戦争が受け入れられようとしていると思うのです。本当に大事なのは誰を祀るとか、誰が参拝するとかではなく、平和のために何が出来るのかだということです。あの時の日本は間違っていました。戦争は二度としてはいけません。もう誰にも戦争で命を落としてほしくないのです。私が出来ることは、戦争で尊い命を落とした方々のご冥福を祈り、二度と同じ過ちを繰り返さないために、我が家の塀を残していく事だと思っています。」</span><br class="spacer_" /></p>
<p>近藤さんはそう言いながら初対面の私の前であるにも関わらず、声をあげながら大粒の涙を流しました。私は相槌を打つ事さえ、恥かしく思ったのです。それだけ近藤さんの貴重なお言葉は私の胸に響いたのです。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p>それぞれの正義を振りかざし、殺しあう同じ国の人間達。</p>
<p>宗教を論じながら、隣人を殺しあう外国の人達。</p>
<p>その陰で犠牲になっていく、罪のない子供達。</p>
<p>私は、世界平和を訴えていくほどの力も名前もありませんが、近藤さんが言われたように、もし平和のために我々個人個人に何かが出来るとしたら、それは次の世代に戦争の恐ろしさ、惨さ、悲しさを伝えていく事ではないか？と思いました。</p>
<p>私達が住むこの大分県の中で、これほどまでに戦争の爪跡を見たのは初めてで、改めて戦争を身近で体感し、運良く実際に貴重なお話しを聞きする事ができました。この聞いた話を次の世代にまた伝える事こそ、私達、戦争の知らない世代が平和のために出来る最高の努力ではないでしょうか？</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p>皆さんも機会があれば、是非宇佐市の各地に行ってみてください。お子様がいる方は、特に最高の平和学習の場になると思います。同時に自分も改めて平和に関して考えさせられる事は間違いありません。</p>
<p>ある真夏の晴れ渡った一日。2006年の終戦記念日は私にとって、忘れられない一日となりました。</p>
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		<title>[終戦記念日特集]宇佐で見た戦争の爪跡　~前編~</title>
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		<pubDate>Fri, 14 Aug 2009 00:17:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ケンジ</dc:creator>
				<category><![CDATA[特集企画]]></category>
		<category><![CDATA[宇佐市]]></category>
		<category><![CDATA[宇佐海軍航空隊]]></category>
		<category><![CDATA[柳ヶ浦小学校]]></category>
		<category><![CDATA[爆弾池]]></category>
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		<category><![CDATA[終戦記念日]]></category>
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		<category><![CDATA[防空壕]]></category>

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		<description><![CDATA[私達の住む日本を舞台に行われた世界最大の戦争、『太平洋戦争』。
その太平洋戦争の終戦から早60年。戦争を経験した多くの方は年老い、既に戦後となって生まれた団塊の世代が定年退職を迎えるという年代になってきました。そんな戦争 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>私達の住む日本を舞台に行われた世界最大の戦争、『太平洋戦争』。</p>
<p>その太平洋戦争の終戦から早60年。戦争を経験した多くの方は年老い、既に戦後となって生まれた団塊の世代が定年退職を迎えるという年代になってきました。そんな戦争を知らない我々の世代にとって、戦争とは中東などを中心に海外で行われている、対岸の火事的出来事の様にも感じてしまいます。</p>
<p><span style="font-size: medium;"><em>「平和が一番！」「戦争をやめよう！」 </em></span></p>
<p>言葉でそれを言うのは非常に簡単な事です。しかし戦争は、理屈ではとても説明の出来ない…我々の常識ではとても考えられない世界の話でした。我々がそれを知るきっかけになったのが、2006年の8月、大分活性化宣言！の終戦記念日特集で訪れた、宇佐市の多くの戦争史跡を見学した日の事です。</p>
<p>『宇佐海軍航空隊跡地』を皆さんご存知でしょうか？　我々が見て・聞いて・感じた全ての物を、出来る限り忠実にお伝えします。</p>
<p><img class="aligncenter size-full wp-image-254" title="usakaigun37" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun37.jpg" alt="usakaigun37" width="250" height="188" /></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-266" title="usakaigun01" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun01.jpg" alt="usakaigun01" width="250" height="188" />我々が宇佐海軍航空隊跡地の案内をお願いしたのは、宇佐市教育委員会の井上課長様。<br />
 井上課長から最初に案内されたのは<span style="color: #ff0000;"><strong>高井横穴壕</strong></span>でした。</p>
<p>ここは駅館川の東側。この辺り周辺には約6kmに渡り、防空壕が点在します。昭和20年の2～3月にかけ掘られたものだと言われ、現在は施錠されて自由に入る事はできません。<br />
 数年前、鹿児島で防空壕で遊んでいた子供が亡くなるという事故が起き、それ以来施錠され立入り禁止になったのだそうです。見学をしたい方は、教育委員会に事前に連絡をすれば見る事も出来ます。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-255" title="usakaigun02" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun02.jpg" alt="usakaigun02" width="250" height="188" />いよいよ中に入っていきます。</p>
<p>思った以上に暗い壕内には、懐中電灯が絶対に不可欠です。３歩も歩けば、すぐにヒンヤリした空気が伝わり、奥を照らすとここが随分横長である事を改めて感じました。実は昭和20年4月21日の、本格的な大空襲によって、宇佐海軍航空隊の中枢は爆撃され、やむを得ずこの防空壕に中心部を移したそうです。つまり、ここは民間の避難場所だけでなく、もっと重要な意味を持った防空壕だったのですね。</p>
<p><img class="size-full wp-image-256 alignleft" title="usakaigun03" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun03.jpg" alt="usakaigun03" width="200" height="150" /> <img class="alignnone size-full wp-image-268" title="usakaigun05" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun05.jpg" alt="usakaigun05" width="200" height="150" /></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-257" title="usakaigun06" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun06.jpg" alt="usakaigun06" width="250" height="188" />内部は驚くほどかなりの広さ。しかも迷路の様に入り組んでいます。</p>
<p>そんな中、二ヶ所で見る事が出来る写真の様な通気口。その先には駅館川へ続く断崖絶壁があります。広さも手伝い、壕内の空気はかなり薄め。この中で長い時間を過ごすためには、何度もこうして通気口の傍に足を運ぶ事が、必要だったのでしょう。内部は綺麗に整備されていますが、いまだに灯りを灯したであろう台の跡や、一段高くなった生活感の窺える場所もありました。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-258" title="usakaigun07" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun07.jpg" alt="usakaigun07" width="250" height="188" />次に我々が案内されたのは、平野に広がる田園地帯。一見のどかな風景にも見えますが、この田園風景のど真ん中に車を停め、そこからあぜ道をしばらく歩いていきます。何気ない田園の風景の中に突如現れる、溜池のような風景。これが<span style="color: #ff0000;"><strong>爆弾池</strong></span>です。</p>
<p>文字通り、米軍の空襲で落とされた爆弾によって、大きな穴が開き、そこに水が溜まって出来た池の事です。 　実はこの辺りでは、爆弾池は珍しくなかったそうで、この様な風景がたくさんあったとか。時代を重ねるうちに少しずつ田園風景に変わって行くのですが、この爆弾池だけは所有者の強い思いから、平和の象徴として残しておくべきだとなったそうです。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-259" title="usakaigun08" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun08.jpg" alt="usakaigun08" width="250" height="188" />井上課長によれば、池の直径は約10ｍ。池の深さは３ｍ以上だとか…。見た目では想像できませんが、かなり深いんですね。この時はまだ気がつきませんでしたが、この辺りは既に宇佐海軍航空隊の基地周辺。飛行場だったり、基地の中枢があった場所ですから、当然狙われていたわけです。爆弾池は平和な田園風景の中にポツンと何かを訴えるように、佇んでいました。その姿がやけに印象に残り、何かを感じずにはいられません。</p>
<p>爆弾池の付近が基地の周辺だと知るのは、この後すぐ傍にある史跡で、さらに激しく視界に訴える戦争の爪跡を見る事になるからです。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-260" title="usakaigun09" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun09.jpg" alt="usakaigun09" width="250" height="188" />爆弾池からそう遠くない位置にあるこの奇妙な形の建物跡。いかにも、という感じで荒廃していますが、<span style="color: #ff0000;"><strong>地下無線室跡</strong></span>です。近くまで寄ってみると、確かに地下に何らかの部屋があった跡がありました。残念ながら今はゴミが溜まっている状態。自由に入れても危険な気もしますので、仕方ないのでしょうか。</p>
<p>下の一番右の写真は<span style="color: #ff0000;"><strong>無線受信室跡</strong></span>。民家の近くにひっそりと建っていますが、こちらもかなり荒廃が進んでいます。数年前、鹿児島で防空壕で遊んでいた子供が亡くなるという事故が起き、それ以来施錠され立入り禁止になったのだそうです。見学をしたい方は、教育委員会に事前に連絡をすれば見る事も出来ます。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignnone size-full wp-image-263" title="usakaigun10" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun101.jpg" alt="usakaigun10" width="200" height="150" /> <img class="alignnone size-full wp-image-264" title="usakaigun12" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun121.jpg" alt="usakaigun12" width="200" height="150" /></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-269" title="usakaigun13" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun13.jpg" alt="usakaigun13" width="250" height="188" />こちらのレンガ造りの建物。一見、立派に現在でも使われているレトロチックな倉庫の様にも見えますが、立派な戦争遺跡です。実はこの建物は実際に何に使われていたのか、定かではありません。当時の方の貴重なお話から、どうやら<span style="color: #ff0000;"><strong>落下傘（パラシュート）の整備室</strong></span>だったのでは、という説が有力です。  　しかしその用途とは関係なく、この建物が非常に重要な理由があるのです。外壁に無数に残る弾痕が見えますか？戦争の凄まじさが、平成になった今でもくっきりと見て取れます。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-270" title="usakaigun17" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun17.jpg" alt="usakaigun17" width="250" height="188" />左の写真の青く囲んだ部分に注目下さい。  　写真では分かりにくいかもしれませんが、良く見るとここに白い○が描かれています。有事には最優先で防災しようという印なんだそうです。上の写真の一番右がそのアップ。うっすらと見える白い丸印が見えますか？年月が経って、かなり見難くなっていますが、確かに近づいて見ると白い丸が大きく描かれていました。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignnone size-full wp-image-271" title="usakaigun14" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun14.jpg" alt="usakaigun14" width="200" height="150" /> <img class="alignnone size-full wp-image-273" title="usakaigun16" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun161.jpg" alt="usakaigun16" width="200" height="150" /></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-274" title="usakaigun18" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun18.jpg" alt="usakaigun18" width="250" height="188" />少し場所を変え、今度は現在の柳ヶ浦高校の前まで移動します。</p>
<p>柳ヶ浦高校の正門前にあるのは、宇佐海軍航空隊から派遣され、特攻隊員として命を落とした方と、宇佐の航空隊で亡くなった方を慰霊する<span style="color: #ff0000;"><strong>忠魂碑</strong></span>です。毎年4月16日にここで慰霊祭が行われているそうです。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-275" title="usakaigun20" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun20.jpg" alt="usakaigun20" width="190" height="253" />こちらも場所は柳ヶ浦。無数の爆撃痕が壁に残されたままです。ここは残されている場所に大きな理由があります。  写真の看板にはこのように書かれています。</p>
<p>「昭和20年、柳ヶ浦を中心に大きな空襲がありました。このコンクリート壁にはアメリカの戦闘機の銃弾の跡がたくさん残っています」</p>
<p>実はこの場所は、柳ヶ浦小学校。その東側の壁なのです。 朝の通学時間中に突如襲った大空襲は、多くの子供たちの尊い命も奪いました。その弾痕の跡の残る小学校はいまだに当時の姿のまま、柳ヶ浦地区の子供たちに戦争とは何か？を伝えているのです。  下の写真でも分かるとおり、弾痕の跡は大人の膝下辺りであり、子供たちにとっては体の中心部分にあたります。もちろん今でも利用されている校門も例外ではありません。</p>
<p><img class="alignnone size-full wp-image-276" title="usakaigun22" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun22.jpg" alt="usakaigun22" width="200" height="150" /> <img class="alignnone size-full wp-image-277" title="usakaigun23" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun23.jpg" alt="usakaigun23" width="200" height="150" /></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-278" title="usakaigun24" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun24.jpg" alt="usakaigun24" width="188" height="250" />他にもこの柳ヶ浦小学校には様々な史跡が残されています。 右の写真は、ここから少し離れた宇佐海軍航空隊の正門。 戦後、埋もれていたこの正門を、教育委員会や有志の方の尽力で、ここまで運んできたのだそうです。平和学習として利用してもらいたいという思いなのでしょう。</p>
<p>ちなみに、正門のもう片方は、いまだにどこかの土の下に埋もれているのだとか…。 他にも小学校に戦前からあった石碑の跡は、激しい爆撃で大きな石碑の上半分が吹き飛んだ後が今でも残されているのです。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-279" title="usakaigun28" src="http://active-oita.net/wp-content/uploads/2009/08/usakaigun28.jpg" alt="usakaigun28" width="188" height="250" />柳ヶ浦小学校から少し離れた場所に移動し、こちらは浄土真宗　<span style="color: #ff0000;"><strong>蓮光寺</strong></span>。ここの門は別名・<span style="color: #ff0000;"><strong>生き残り門</strong></span>と呼ばれています。</p>
<p><em>「生き残りの門。安政二年の建立。昭和二十年四月二十一日午前八時二十五分、Ｂ二十九の空襲により、本堂・庫裡全壊する。この門のみ奇跡的に倒壊せず、寺の面目を保つ。この日近くだけで死者十名、全半壊二十戸」</em></p>
<p>門の傍にはこう書かれた立て看板がありました。また下の左の写真で分かるとおり、弾痕が真っ直ぐ、手前から奥にかけて伸びています。これも生き残り門の柱に今なおクッキリと残されています。</p>
<p><br class="spacer_" /></p>
<p>まだまだ紹介できる場所が多い宇佐市近郊の戦争跡。</p>
<p>目玉でもある掩体壕まで辿り着くのもまだまだ先の話です。</p>
<p>この続きは<a href="http://active-oita.net/archives/294">後編</a>でお楽しみください。</p>
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