2010/05/20
大友宗麟を追え!
大分県出身の著名人と聞いて、誰を想像しますか?
日本を代表する思想家で、一万円札の代名詞にもなっている福沢諭吉。
日本の黎明期に斬新な音楽を発表し、若くして伝説になった音楽家・滝廉太郎。
前人未到の69連勝をはじめ、近代の相撲史に金字塔を打ち立てた昭和の大横綱
双葉山。
他にも財政界・スポーツ界・芸能人など、多くの人物を思い浮かべることが出来ます。
ですが、「大分の歴史上の偉人」と聞いて、この人の名を忘れる大分県民は少ないでしょう。
大友宗麟
戦国時代、今の大分県の礎を築いた戦国武将。正確な名を大友義鎮。
では、宗麟公はどんな人生を送り、どんな活躍をしたのでしょうか?
実はこの内容を知る大分県民は少ないのです。
大分の人が知らないのですから、当然全国に目を向けるともっと知名度は低くなります。
今日は、大友宗麟の生涯を追いながら、彼が大分県に残した功績から彼にまつわる謎まで、現時点で分かる範囲を調べてみたいと思います。
そして!
一年ぶりとなる、大分活性化宣言!の新企画を発表します♪

大友宗麟は、知れば知るほどその人となりについて様々な疑問が浮かぶ人物です。
そのせいか、現在のマニアの間では評価が激しく分かれています。「偉人」と思う人も彼のダークなイメージを否定出来ませんし、「嫌いだ」と思う人も彼の偉業の事実から目は逸らすことは出来ません。
では、まずは時系列を追いながら、大友宗麟の生涯を軽く触れていこうと思います。
名付けて、
「10分で分かる大友宗麟」
プロローグ 大友氏大分支配への道
大友氏は実は最初から大分にいたわけではなく、元は初代当主の能直(よしなお)が相模国の大友荘を支配したことから始まっています。今で言う神奈川県出身の家柄と言うわけです。
あの源頼朝の下で大活躍をした初代当主能直は豊前・豊後両国守護兼鎮西奉行に任じられ、大分の地を治めることになりました。しかし、この時点ではまだ大友氏が直接この地で生活していた記録はなく、三代目の頼康(よりやす)あたりから、土着したのではないかと考えられています。
当初は、現在でいう豊後大野市などの一部の荘園を所有していた大友氏は、室町幕府に時代が変わっても、足利尊氏などと親交を深め、時代に合わせた巧みな外交術で徐々に県内の支配を広げていきます。
肥後・肥前、筑前・筑後など、影響力を徐々に広げていった大友氏でしたが、楽にそうなったわけではなく、常に内部紛争を繰り返しながら、強固な体制を築き上げていきます。
第一章 骨肉の争い
日本全国が乱れ始める1500年代序盤、大友氏は第二十代当主・大友義鑑(よしあき)は、九州に覇を唱えるために、実弟のいる肥後を支配しようとするなど、戦国時代らしい動きを活発化背させて行きます。
そんな享禄3 年1月3日(1530年1 月31日)、義鑑に待望の第一子が誕生します。幼名を塩法師丸。後の大友義鎮で世に言う大友宗麟公です。
宗麟公の幼少時代は、とんでもないうつけ者だったと言われています。しかも体が弱かったらしく、父・義鑑は彼が世継ぎとして相応しいのかどうか悩みます。さらに側室との間に生まれた三男の塩市丸を寵愛し始め、腹心の入田親誠と企みついに宗麟公の廃嫡計画を実行しようとしました。
宗麟公を湯治に行かせた間に、義鑑は重臣を集め、後継者を塩市丸にすることを相談します。ところが、これに異を唱えた部下が数人出てきました。義鑑はこれに激怒し、反対派を粛清しようとします。一旦難を逃れた反対派の数名は、この仕打ちに対しついに反旗を翻し、1550年2月10日、大友館の二階で寝ていた一家を襲撃し、塩市丸とその母を殺害、義鑑も重傷を負い、この二日後に息を引き取りました。これが俗に言う二階崩れの変です
別府から帰って来た宗麟公は、ただちに事件を解決すべく、入田親誠を反乱の首謀者として首を取り、ついに自ら第二十一代当主となったのです。宗麟公二十歳の誕生日後の話です。
第二章 全盛期へ
宗麟公が実権を握ってからというもの、大友豊後の快進撃は目を見張るものがあります。
第一の理由は幸運。長い間親族でありながら争いを続けてきた周防の大内氏が謀叛により衰退し、弟を新当主として送り込むことで長い対立の歴史に終止符を打ちます。北九州方面に影響力を持っていた大内氏を取り込むことで、大友の名は本州にまで轟き始め、博多を手に入れて経済的にも磐石の態勢を築き上げていきます。
第二に優れた配下武将の活躍。特に知られているのは立花道雪として知られる戸次鑑連(べっき あきつら)。主に筑前方面を歴任し、大内氏を滅ぼした毛利元就を初めとする毛利氏との長い戦いでは最前線で活躍します。これらの優秀な武将に恵まれ、宗麟公は北に南にと、勢力を拡大していきます。
永禄2 年(1559 年)6月には、豊前国・筑前国の守護に任ぜられ、同年11月には九州探題に補任されます。さらに永禄3年(1560年) に左衛門督に任官。 こうして宗麟公は名実共に九州に置ける最大版図を築き上げ、大友氏の全盛期を創出したのです。
ところで、こんな時期に宗麟公はある運命的な出会いを果たします。日本に初めてキリスト教を伝えたことで知られるフランシスコ・ザビエルです。宗麟公は彼らとその教えに深い関心を示し、宣教を許可しますが、これに反対した家臣団との間に大きな確執も生まれ、これによる内紛・紛争はこの後も飽きることなく繰り返されていくのです。
第三章 北と南と洗礼
将軍家である足利家の仲裁で一旦は収まった筑前地方での毛利氏との戦いは、大友家重臣の謀叛という小さな種火から、また燃え盛る事になります。宗麟公は戦場だけではなく、様々な手を用いて何とかこれを防いで来ましたが、今度は南に目を向け、肥前の龍造寺隆信を討つ決意をし、南征の兵を挙げます。
元亀元 年(1570年)、肥前で行われた今山の戦いにおいて、大友勢は竜造寺氏の前に大敗を喫し、宗麟公の弟である親貞もここで戦死します。この敗戦の後に結ばれた和睦は当然大友氏にとって不利な条件となり、結果宗麟公は北に南に、敵を残す結果になってしまったのです。
天正4年(1576年)、家督を長男の大友義統(よしむね)に譲って丹生島城(現在でいう臼杵城)へ隠居することになった宗麟公。この時の年齢はまだバリバリの46歳。当然隠居とは名ばかりで、息子の義統と二次元政治がこの時から始まる事になります。
翌年、薩摩の島津義久が日向侵攻を開始します。このタイミングで宗麟公はついに正式にキリスト教の洗礼を受け、教徒となります。天正5年(1577 年)7月のお話。洗礼名は有名な『ドン・フランシスコ』。以後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用いている事からも、その信仰心の厚さが窺えます。
第三章 大敗からの衰退
いよいよターニングポイントとなった大きな戦いがやって来たのは天正6年(1578年)。
薩摩から勢いに乗って進行して来た島津軍を日向で迎撃しようとした宗麟公は、島津寄りの土持氏を攻略し、再び現在の延岡市一帯を掌握しますが、理想のキリスト教国家を目指した宗麟公は、この地の神社仏閣をことごとく焼き払います。この為、宮崎県北部の歴史的な文化財はこれが原因でほぼ壊滅したと言われています。
この年の十一月、九州の最大勢力を争う両雄がついに本格的に激突。高城川を挟んで9日に開戦した戦いは僅か3日後の12日、倍ほどの兵数を配置していた大友勢が大敗を喫し、陸路を逃げる大友勢を島津軍が追撃。折りしも大雨で増水した耳川で多くの戦死者を出した事から、この戦いは一般的に『耳川の戦い』と呼ばれることになります。
耳川の敗戦で多くの兵と優秀な武将を失い、さらにこの大敗は異教に身を投じた宗麟公の責任だと弾劾する者まで現れ始めます。また二次元政治の影響から、息子の義統との確執も表面化し、また宗麟公は内紛や政治的問題に悩まされる事になります。
追い討ちをかけるように、島津だけではなく、仇敵の龍造寺や筑前の秋月種実(あきづき たねざね)らが続々と大友氏の領土を侵し始めます。北部地方に睨みを利かせていたはずの立花道雪もこの最悪のタイミングで死去。絶好機と見た島津軍はついに本格的に豊後国占領に向けて動き始めるのです。
第四章 国崩しと最期
宗麟公が最後に仕掛けた苦肉の策は、この時天下統一へ向けて着々と準備を進めていた豊臣秀吉に助けを請うことでした。九州平定を目論んでいた秀吉はこの要請を受けて、土佐の長宗我部(ちょうそかべ)親子や讃岐高松にいた仙石秀久(せんごく ひでひさ)らを派遣します。
破竹の勢いで進軍して来た島津軍は一万の兵をもって現在の戸次地区にあった鶴賀城を包囲。これに対し仙石率いる豊臣軍は僅か六千程の兵で決戦を挑みます。天正14年12月12日(1587年1 月20日)、世に言う戸次川の戦い。豊臣軍は多くの犠牲者を出して大敗。援軍を送るはずだった宗麟公の息子・義統は動く事ができず、翌日ついに島津軍は大友氏の本拠地・府内制圧に成功します。
宗麟公はこの時、丹生島城(臼杵城)に篭城していました。当然この城も島津軍が包囲します。臼杵城から役300m程離れた場所にある敵陣に向けて、宗麟公が選んだ戦法は当時の常識を遥かに覆し、新時代の幕開けを予感させるものでした。全長2.8㎝、口径9.7㎝と言われる大砲が日本の戦場で始めて火を噴いた瞬間です。
遡る事11年ほど、ポルトガルから贈られてきたこの大砲を、その大地を揺れ動かすほどの威力から宗麟公は『国崩し』と名付けていました。戦に明け暮れた有名武将の多い戦国時代の中で、宗麟公が最前線で指揮を振るったという記録は、実は驚くほど少ないのです。この国崩しを使った丹生島城包囲戦は、実に稀な宗麟指揮の戦だったと考えられています。
翌年、仙石秀久の醜態に怒った秀吉はついに自ら兵を上げ、九州征伐に乗り出しました。戦局は一気に変わり、島津勢は豊後から撤退。こんな状況の中、宗麟公は病に倒れます。秀吉は息子の義統に豊後を治めさせ、宗麟公に隠居の地として日向を与えようとしましたが、自身がこれを辞退し、島津軍によって崩壊となった臼杵を後にして、津久見へと移ります。
天正15 年5月6日(1587年6 月11日)、波乱に富んだ人生が幕を閉じました。享年58歳。奇しくも薩摩へと追い込まれた島津軍が豊臣軍に降伏をする直前だったといわれています。
エピローグ 権力者と大友家
豊臣秀吉から改めて豊後一国を任された第二十二代当主・大友義統は、当初秀吉から信頼されていました。その証拠に上洛した際、なんと羽柴・豊臣の姓を使用する事を許された他、秀吉から「吉」の1字を与えられて吉統と改名までしています。また父同様キリスト教の洗礼を受けていた義統ですが、幕府のバテレン追放令にならい、キリスト教を棄教します。そんな彼に試練が訪れたのは文禄2 年(1593 年)、明の大軍に包囲された小西行長から救援要請を受けたのです。
敵は文化も戦い方も違う異国の者。また小西戦死という誤報まで伝わり、義統は救援を諦め、戦場を放棄しました。秀吉はこれに激怒して、義統に改易という厳しい処分を下します。つまり豊後の国主としての地位を剥奪されたのです。その後、一度は罪が許され、大分に戻ってくるものの、石垣原の戦いで名将・黒田如水率いる軍に大敗し、再び幽閉の身となりました。
天下分け目の戦と呼ばれた関が原の戦いでは、大友義統は息子の義乗を徳川秀忠に仕えさせながら、なぜか自らは西軍に与するという失態を犯し、お家再興の絶交の機会を潰してしまいます。しかし、合戦後、流刑の身となった義統は最後の最後に大きな仕事をやってのけました。流刑の地で大友氏を後世に伝えるべく『大友家文書録』をまとめたのです。衰退した家柄であるにもかかわらず、大友家の記録が多く残されているのは、実は彼の功績なのです。
義統の子の義乗が第二十三代当主となりましたが、歴史の表舞台としては義乗が最後の当主と言っても良いでしょう。以降の大友氏は大分と離れていきます。
いかがですか?
大友宗麟、そして当時の大分県がどう彼に絡んでいたか、理解できましたでしょうか?
こうしてみると、何百年も前の戦国時代の大分県に、大友宗麟が実際に暮らし、九州制圧を狙ってこの地で様々な戦略を巡らしている事が分かります。いつも通っているあの道や、自分が暮らしているあの地域の名前が出るだけで、やけにリアルに感じますよね。
さて、大分活性化宣言!では、さらに大友宗麟をリアルに感じてもらうために、彼を徹底的に追っていこうと思います。
その為に我々が一年ぶりに取り組む新企画は・・・

リアルな大友宗麟の姿を追い、深く深く宗麟公を追及していこうと思います。
最終的には、大友宗麟を全国・全世界に紹介する大規模なウェブサイトを構築し、
夢は大きく、大河ドラマ誘致を目標としましょう!
今後の大分活性化宣言!の研究・取材報告をお楽しみに♪

















