2010/01/06
大友宗麟の生きた証 津久見市 宗麟公園
戦国の時代、大分県の大部分を支配していたのは大友宗麟でした。この時代の豊後の国を語るのに、避けては通れない人物です。
大友宗麟は島津氏によって、その力を衰退させていきますが、本拠地であった現在の臼杵市周辺はかろうじて守り抜き、豊臣秀吉の九州攻略によって、大友家は何とか生き残ったわけです。
その大友宗麟が、臨終の地に選んだのは、その臼杵市ではありませんでした。
今日は大友宗麟のお墓がある津久見市の『宗麟公園』を紹介します。
津久見市には「大友公園」という大きな公園があります。
海岸には最近「つくみん公園」というレジャー的公園も誕生しました。
しかし、この宗麟公園はそれらとは少し趣きの違う公園で、ひっそりと住宅街の傍に位置しています。
小高い丘の上に、少し開けた広場。
そこから二つの階段が見えます。
正面の階段を登ると、宗麟公の銅像が見つけられます。
その後ろには見慣れない、丸いマークがいくつも並んでいます。
これは花押と言われるもの。簡単に言うなら印章のようなもので、何かの文字を意味しているのでしょうが、何の文字なのかはまったく分かりません。
歴代の大友氏の花押・印章がここに並べられていました。
そこから右方向にさらに上っていくと、見晴らしの良い六角形のベンチがあります。
ここからは津久見市はもちろん、豊後水道の向こう側まで一望できます。
最高の景観なのですが、下の手入れされた感じから見ると、草などで少し荒廃していて、ちょっと残念。
さらにそこから左にぐるっと回っていくと、最初の二つの階段のもう一つのほうへ回りこめます。
つまり、一周できるわけですね。
最初の広場から見ると、向かって左側の階段を登っていけば、そこに大友宗麟公のお墓があります。
日が照りかえるこんな日にも、木陰の中で静かに眠る大友宗麟。
「キリシタン武将」などと呼ばれるように、彼がキリスト教を愛していたのは、周知の通りです。
そんな彼のお墓には、立派なクルスが大きく描かれていました。
島津氏に敗れた宗麟公は失意のうちに隠居という道を選択します。
その場所に選んだのは、この静かな津久見の地。
天正15年(1587)に58歳でこの世をさりますが、神父などによって、キリスト教形式のお墓が建てられたそうです。
しかしその後、間もなく豊臣秀吉が、キリスト教の禁止令を発令。
宗麟公の嫡男・大友義統は父の墓を取り壊し、仏式の墓に取りかえました。
ちなみにこの仏式のお墓も、ここ宗麟公園に存在します。
200年後の寛政元年、荒廃したお墓を旧族の方が建て替えました。
そのお墓も近年、また荒廃したため、昭和52年大分市の磯崎氏という高名な設計士の協力で、このお墓が建て替えられたのです。
このお墓の大部分は、㈱マリーンパレス(うみたまごと言った方が分かりやすいですね)が創業14周年記念の事業として負担したことも付け加えておきます。
津久見市の山側にある新興住宅街の奥、本当に静かな木陰で、愛した豊後水道を眺めながら、キリスト教のお墓に眠る宗麟公。
時代に翻弄された、お墓の変貌振りを考えると、非常に興味深く見ることが出来ます。













