2009/12/28

観光名所に隠された意外な真実 青の洞門

中津市本耶馬溪町にある、観光名所の一つ、『青の洞門』

皆さん行かれたことはありますか?

ドライブインを併設したかなり有名な観光地で、行楽シーズンには多くの家族連れなどで賑わいます。

実はこの青の洞門、この名前自体大正の時代のある小説をヒントに付けられた、新しい名所だという事を知ってましたか?
今日はこの青の洞門を、ここにまつわるエピソードを紹介しながら、レポしたいと思います。

ドライブに最適のシーズン、立ち寄る事も多いかもしれない名スポットに隠された、知られざる真実とは!!

青の洞門と言えば、手掘りの洞窟というイメージが強く、なぜ彫ったのか?そこにどんなドラマがあったのか?この真実を知れば、実はもっともっとこの観光施設が、より意味のあるものになっていくのです。
今回は青の洞門の数点の写真を見ながら、洞門にまつわるお話を振り返ってみることにしましょう。

今から三百年以上前、この周辺は通行が不便で、町に出るのに鎖渡(くさりど)と呼ばれる難所を通る必要がありました。
その名の通り、断崖絶壁におまけの様に付けられた鎖。これを強く握り締めて、渡っていたのでしょう。
今でも残る当時を偲ぶように、鎖渡のモデルが残されています。それが左の写真。

上の写真は望遠で撮ってますが、かなり高い断崖絶壁にその鎖渡はあり、駐車場から見上げると、地上から50m以上かという高さ。下から見上げてもかなり高く感じますので、実際に上から見ると、とんでもない高さなのでしょう。ちょっと前まではこの鎖渡、実際に行くことが出来たのですが、現在は行けません。

村の人達はこの鎖を伝って通行していたわけですが、当然足を踏み外し死傷するような事故が絶えませんでした。

越後から諸国遍歴の旅の途中でこの村に立ち寄ったのが、禅海和尚
禅海和尚は人々が難渋するのを見て、この大岸壁を掘り、安全な道を作ることを決意し、これを村の人々に熱心に説きました。
しかし誰一人彼の提案に耳を傾けるものはなく、和尚は一人ノミを手に、大岸壁へと向かったのです。

村人達は口々に狂人だと嘲笑しましたが、念力堅固な禅海和尚の槌の音は月を重ねても止む事はなく、年を重ねる毎に彼の彫る空洞は深さを増していきました。
禅海和尚の不動心はやがて村人の心を動かし、次第に村の人達もノミや槌を持って手伝うようになったのです。

そして掘り始めて三十年、ついにこの洞門は完成しました。
貫通308歩。全長約350m弱。
それは1763年(宝暦13年)4月完成と言われています。

青の洞門という名前は、あの菊池寛のベストセラー小説『恩讐の彼方に』から付けられた名前だそうで、大正8年(1919年)1月の事らしいですから、まだ名前自体の歴史は浅いんですね。
ちなみに小説を読んだことがある方は、分かると思いますが、和尚が殺人者であるとか、彼の敵討ちの話とかいうのは全て小説ゆえの創作です。

現代は昭和の時代に作られた道が、多くの観光客を通し、禅海和尚が掘った洞門はもちろん手が加えられ、分かり易くしてあります。
しかし随所にいまだに残るノミの跡に、和尚と村の人々の熱意を感じる事ができます。

お子様への人間形成の学習用にも、お薦めできますが、大人が普段忘れかけている、「初志貫徹」の精神、 多くの県民の方にも是非見詰め直して欲しい、「新しい事への理解と挑戦」。そんな事を改めて思いました。

ちなみに…実は開通後、禅海和尚は通行人から通行料を徴収したという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路とも言われています。 これが原因で禅海和尚という人物の人となりまで疑う声が出るほどなんですよね。
彫って村の人の役に立った、という美談だけでは終わらない、青の洞門にまつわるなかなか面白い、ちょっとした雑学でした。

関連する投稿


※注意 この投票はブログ記事に対してのものです。該当する記事で紹介された施設や店舗の評価ではありませんのでご注意下さい。

1つ星2つ星3つ星4つ星5つ星 (まだ評価されていません)
Loading ... Loading ...

大分限定ソーシャルコミュニティブログサイト Activeおおいた

最新の情報


Go Top