2009/08/15
[終戦記念日特集]佐伯市平和祈念館 やわらぎ
2006年の終戦記念日、宇佐海軍航空隊跡地を特集し、大分県にも戦争の傷跡が残る事を勉強させていただきました。自分達が住むこの町に、僅か60年ほど前起きた悲惨な出来事。そしてそれを次の世代に伝える事こそ、自分達にできる小さな平和への一歩だという事を学びました。
あれから一年…
この大分県に、他に戦争の証となる施設はないのか?そう考えながら調査してみると、当時の海軍航空隊が大分県にもう一つ存在した事を確認しました。
『佐伯海軍航空隊』
文字通り、佐伯市にあった航空隊の事です。
40度近い猛暑が続いた2007年の終戦記念日、佐伯海軍航空隊の謎を追うべく、佐伯市にある佐伯市平和祈念館 やわらぎにお邪魔しました。

佐伯市平和祈念館 やわらぎは、JR佐伯駅から真っ直ぐ佐伯湾の方へ。文理大付属高校の斜め前あたりに位置します。レンガ造りの大きな建物は道沿いに非常に目立ちますので、すぐに気が付く事でしょう。
2007年の春にリニューアルされたばかりらしく、外観も内装も非常に綺麗です。リニューアル後は見学者も増えているそうで、地元の方は元より、観光客も多くなっているそうです。 ここからの内容を見てもらえば分かりますが、確かに施設としても充実した資料館になっていますので、我々からもお薦めしたい公共施設の一つです。
館内は白を基調にした、清潔感溢れる内装。写真は入り口を入ってすぐの1Fエントランスです。奥にある受付で入館料を支払うと、館内を自由に見学できますが、係りの方が説明をしてくれますので、遠慮なくこれを受けるのが得策。丁寧に解説してくれますので、とても分かりやすく見ることが出来ます。
通常の見学コースなら、ここから二階へと上がり、ぐるっと一周してここへ戻ってくるコースが用意されています。
一階のホールにもいくつかの展示物がありましたが、下の写真の左が、米軍の戦闘機(F-86)の座席。そして右が日本海軍が練習機として利用していた、通称赤トンボと呼ばれる九三式中間練習機の車輪です。戦争末期には特攻機としても利用されました。
二階へ上がる階段に掛けられているタペストリーには、佐伯海軍航空隊と佐伯市の一連の歴史を説明する簡単な資料になっています。まずは階段を登りながら、大まかな流れをここで確認しましょう。

二階に上りついたら、通路沿いに太平洋戦争の大きな流れが説明されたパネルが並んでいます。それを見ながら前に進むと、ついに資料館へとやってきます。ここから佐伯海軍航空隊の歴史的な展示品や、戦時中の様々な生活必需品を見ることが出来ます。
佐伯海軍航空隊の庁舎は、このやわらぎの隣、現在海上自衛隊佐伯基地分遣隊がある場所にありました。さらにその先、中江川を越えた向こう側に現在は興人の佐伯工場がありますが、そこが飛行場だった場所で、掩体壕なども今でも見ることが出来ます。つまりこの辺り一体が戦争遺跡として、今でも貴重な戦争史料が多く残されているんです。
ここからは佐伯海軍航空隊と佐伯市の歴史について、貴重な資料を見ながら解説していきたいと思います。
佐伯市は軍都になる事を自ら望みました。それは軍都になることで、莫大な資金が市に入る事になり、当時の常識から考えると、大変名誉な事だったのでしょう。こんないきさつもあり、1934(昭和9)年、佐伯海軍航空隊は開隊することになります。時に日中戦争開戦前。同戦争では多くの兵士達がこの佐伯市から派遣されているのです。

1940年台に入る頃、佐伯市の湾岸を舞台に大規模な演習が繰り返されます。この頃、この演習が何のためのものなのか?知る者はほとんどいませんでした。実は、佐伯市の湾岸一帯は、当時のある地方の港に形状が良く似ていたそうです。つまりその地を攻撃するための演習でした。時に第二次世界大戦勃発前。佐伯市に似ていたその地こそ、世界を驚かせた真珠湾攻撃の舞台、パール・ハーバーです。
真珠湾攻撃の際、択捉島の単冠湾に集結した攻撃隊が一斉に出撃したのは有名な話。ところがそれだけではなく、実際に佐伯からも出撃隊が発進された事がここで分かります。
上がってきた二階の反対側から、ぐるっと廻って一回へと再び戻ります。辿り着くのは大きな映写機が印象的なホール。後方には、海軍航空隊の資料の他、当時の市民の方々の生活用品が並んでいます。
下の写真の左に見えるのは千人針。白い綿布に赤糸で縫い玉を作り、出兵の際に兵士の無事を願い妻や母が送ったものなのだそうです。名前の通り、その縫い玉は、一人一粒でちょうど千個。つまり千人の女性に縫って貰うのだそうで『祈武運長久』と書かれているのが分かります。

この一階のホールでは、大型ビジョンで佐伯海軍航空隊の歴史と、戦場となった佐伯市の解説を詳しく知ることが出来ます。特にこの映像の中で頻繁に登場する、実際に当時を知る佐伯市民の体験談は、非常に貴重で、涙ながらに当時を語る姿は見ている者の涙も誘い、悲惨な状況を想像するに難くない内容でした。
1945年(昭和20年)、ついに米軍は本土へと攻撃を始め、もちろん重要軍事施設のあったこの佐伯市も空爆の標的とされました。昭和20年3月18日、米軍による初めての佐伯市空爆。以降計6度に渡り空襲を受ける事になります。
特にこのVTRの中で、多くの人が涙ながらに説明をされていた4月26日の空襲は、凄惨な現場だったようです。場所は、現在佐伯鶴城高校のある、馬場通り。この辺りにはいくつかの共同防空壕があったそうですが、その中の一つに直撃弾が落下。避難していた多くの市民が犠牲になったそうです。
佐伯市が見舞われた最後の空爆が8月14日。この日、ポツダム宣言が受諾され、翌日太平洋戦争は終結します。あと数日早ければ、少なくとも最後の空爆で亡くなった市民4人の命は助かっていたと思うといたたまれません。
佐伯市に築かれた重要軍事施設、そして佐伯海軍航空隊。
ここで命を落とした多くの市民、そして戦争のあった時代を必死に生きた佐伯市民。
多くの事がこの平和祈念館やわらぎで学べました。
ここで何を感じ、何を考えるか?それは皆さん次第です。
どうぞ一度足を伸ばし、その目で真実を確かめてください。












